ushiroaruki

映画を中心に感想や考察。ガッツリネタバレ多め。

「理想の自分でいられない」2人のおもちゃの挫折と成長『トイ・ストーリー』(1995)

トイ・ストーリー』(1995)を鑑賞。

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人間の見ていないところで実は動いたりしゃべったりしているおもちゃたちの世界を描いた、初のフルCGアニメーション長編映画作品。1999年には「トイ・ストーリー2」が、2010年には「トイ・ストーリー3」が公開され、物語に登場するキャラクターたちも未だに愛され続けている超人気シリーズの第1作目である。

この記事を書くにあたってwikipediaを参照したんだけれど、ウッディの苗字が「プライド」ということをはじめて知った。その名前にふさわしく、「トイ・ストーリー」冒頭のウッディは、おもちゃの仲間たちに優しく人が良さそうに接しながらも、どこか「自分はアンディの一番お気に入りのおもちゃである」というプライドや優越感を隠しきれていない。

私が子どもだった頃はまっすぐに主人公・ウッディに感情移入して、自分がおもちゃであるということを受け入れられないバズにイライラしたのを覚えているが、今改めて見てみると別の印象を抱いた。ウッディは自分の現在の状況にあぐらをかき、おごり高ぶっていたために、ある意味バズと同じように迫りくる現実から目を背けていたのである。

ウッディは「自分より才能のある新しい誰か」の登場に悩み、バズは「なりたいものになれない自分」とぶつかり絶望する。これは2人の男(おもちゃ)の挫折と、衝突、そして最終的には2人で協力して、立ちはだかった現実の壁をしっかり見つめた上で受け入れて、成長する物語だったのである。

自分のアイデンティティの崩壊を食い止めようと必死なウッディが物語の前半で言う「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。カッコつけてな」というイヤミたっぷりな言葉を、ラストで自分の殻を破ったバズが口にする展開にグッときた。

 

バズが「無限の彼方へ、さあ行くぞ」と言いながら空を飛ぼうとするシーンが映画の中に3度ある。1度目は、空を飛べないおもちゃであるはずのバズが、偶然が重なって空を飛んだように見え、おもちゃの仲間たちがそれを賞賛する。自分が空を飛べると信じて疑わないバズの夢には傷一つついていない。それを見たウッディが面白くなさそうに口にするのが前述のセリフである。

2度目では、バズは「自分がスペースレンジャーではなく本当はおもちゃなのではないか」という疑いを晴らすため、もう1度1人で空を飛んでみようとする。しかし、そううまくいくはずもなく、バズは階段から落ち、腕が取れてしまう。見てていたたまれなくなるほどに痛々しい、決定的な挫折のシーンだ。

3度目の「無限の彼方へ、さあ行くぞ」はバズの代わりにウッディが口にする。ロケット花火を背中にくくりつけたバズがウッディを抱えて空を飛び、持ち主であるアンディのもとへと帰っていくシーンだ。あんなに疎ましく思っていたはずのバズの決め台詞を口にすることで、ウッディが自分以外の存在を真に受け入れて成長したことを表している。さらに、そのセリフに対して他ならぬバズに、以前ウッディが皮肉として言った「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。カッコつけてな」というセリフを口にさせる。こちらも、自分がおもちゃであり飛べないという事実を、バズが受け入れて成長したことを表している。冒頭のシーンとはセリフの発言者をそれぞれ入れ替えたことで、対立していた両者が共に成長し、絆が生まれたことを印象付ける素晴らしいシーンである。

 

子どもの頃の思い出が蘇る感覚に胸をワクワクさせながら、バズ・ライトイヤーというキャラクターのあまりのピュアさに改めて気づかされた。見た目からはそんな風に思えないが(声も所ジョージだし)バズはおもちゃとしては本当の意味で「新米」で、生まれたばかりの子供のように純粋な存在として描かれている。まっすぐな好意はまっすぐに喜ぶし、人を疑うことを知らず、悪いことをしたらきちんと謝る。世の中に穢されていないまっさらな存在なのである。だからこそ、本当に「大きくなったら戦隊モノのヒーローや魔法少女になれると信じて疑わない子供」のように、自分がおもちゃではなく本物のスペースレンジャーだと信じているのだ。

一方でウッディは、プライドや虚栄心に身を固め、保身に走り、自分の地位が脅かされることにばかり気を揉んでいるいわゆる「大人」の象徴のようにも思える。もしかしたらウッディにも「自分はおもちゃではなく本物の保安官である」と信じていた時代があったのかもしれない。ウッディは自分が失ってしまった純粋さを持つバズに苛立ち、嫉妬し、「おもちゃの(社会の)ルール」を押し付けようとする。

これは、深読みすると子どもと大人の対立という普遍的なテーマを扱っていると思えなくもない。そう考えると、物語後半の2人の和解シーンはさらに感慨深い。

 

今のCGアニメーション映画作品に慣れた目で見ると、やはり比較的カクカクだったり質感が物足りなかったりもするが、そういう技術的な側面を飛び越えて、ストーリーやキャラクター描写が全く色あせていない作品だと感じた。20年前も今も、変わらずウッディやバズやミスターポテトヘッドたちは、思わず目が画面にくぎ付けになるほどに愛おしくて魅力的なキャラクターだ。それは現在でも続編の制作がさらに予定され、関連グッズがどんどん発売されている事実を見ても明らかである。

「子ども」だった私が「大人」の象徴的なウッディに感情移入して、「大人」になった私が「子ども」の象徴であるバズに感情移入したというのも面白い。空なんか飛べないことがわかっていても、やっぱり人は「なれないものになりたい」のかもしれない。

 

余談だけど、シドの家から逃れるために、「バズの腕」を持って仲間たちに助けを求めるウッディの些細な嘘がバレるシーンは、いろんな映画を見てきた中でもダントツに目を背けたくなる痛々しいシーンである。普通に生活していても、ふとした瞬間に思い出して苦々しく思ったりもする。これはネガティブな意味じゃなく、教訓と似たような意味の「トラウマ」かもな。